百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】 (3/5ページ)
「久兵衛よ……今からでも遅うはない、そなただけでも考え直せ!」
「すまぬが叔父上、我らは我らの道を行く!」
「されば是非もなし……参れ!」
「おう!」
久兵衛らと決別し、果敢に抗戦する与左衛門たち(イメージ)。Wikipedia(撮影:サフィル氏)より。
烈しい攻防戦の中で宮部継潤は国友一族自慢の鉄炮(※国友村は当時、全国有数の鉄炮産地でした)によって負傷、多くの犠牲を出したもののどうにか攻略。与左衛門は逐電したのか、以降の行方は知れません。
「……叔父上、どうかご無事で……」
その後も一年弱にわたって戦闘が繰り広げられ、翌天正1573元年9月1日に浅井家は滅亡。長政は切腹して果てたのでした。
五千石の大出世、そして義父との別れかくして久兵衛は宮部継潤と共に秀吉の与力として仕えることとなり、天正五1577年には中国地方の覇者・毛利(もうり)氏の攻略に従軍。秀吉の弟・羽柴秀長(はしば ひでなが。この時点では長秀)を補佐して山陰方面の敵に当たり、秀長が留守の時は代理で指揮を任されるほど篤く信頼されました。
数々の武勲によって宮部継潤は天正八1580年、但馬国豊岡城(現:兵庫県豊岡市)を与えられ、2万石の大名となります。