百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】 (4/5ページ)

Japaaan

「義父上、此度はまこと祝着至極に存じまする」

「これも偏(ひとえ)に久兵衛の助けあればこそ……これからも、よろしく頼むぞ」

「ははぁ」

そんな天正十1582年6月2日、秀吉の主君である信長が京都で重臣の明智光秀(あけち みつひで)の謀叛に遭って横死してしまいます。

明智光秀の軍勢に滅ぼされた信長たち。Wikipediaより。

後世に言う「本能寺(ほんのうじ)の変」を知った秀吉は、それまで戦っていた毛利氏と急いで和睦し、仇討ちのため京都へとんぼ返りを始めました。

「久兵衛……急ぎ筑前(秀吉)様の元へ馳せ参ずよう、早馬が参ったぞ!」

これがいわゆる「中国大返し」ですが、久兵衛は宮部継潤と別行動で秀吉に従い、猛スピードで京都を目指します。

「わしは留守番か……久兵衛よ、わしの分まで武功を上げるんじゃ!」

「はっ。義父上が背中を守って下さればこそ、後顧の憂いなく戦えまする!」

久兵衛は押取り刀で秀吉の本隊に合流、山崎の地(現:京都府乙訓郡大山崎町)で明智の軍勢を撃破。この「山崎合戦」で大いに武功を立てた久兵衛は、恩賞として五千石の所領を賜りました。

「……ところで久兵衛、モノは相談なのじゃが……」

久兵衛は秀吉から直々に声をかけられ、秀吉の甥である羽柴秀次(ひでつぐ)の補佐役に抜擢されます。

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