眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗 (1/3ページ)

Japaaan

眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗

東北地方を代表する戦国大名と言えば、伊達政宗(だて まさむね)を挙げる方が少なくないと思います。

「あと十年早く生まれていれば、天下が奪れた」と評された活躍ぶりもさることながら、ことさら人目を惹くのが「独眼竜(どくがんりゅう)」の二つ名の元になった隻眼(せきがん。片目)。

失明した右目に眼帯代わりの鍔(つば)を当てたビジュアルが人々に強烈なインパクトを与えましたが、どうやら政宗が眼帯を使用していたことを示す史料は見当たらず、また「独眼竜」という二つ名も後世につけられたそうです。

今回は、そんな政宗の右目事情について紹介したいと思います。

政宗=眼帯のイメージは昭和初期から

通説では、政宗(幼名:梵天丸)は幼少時に患った天然痘の後遺症で右目を失明。コンプレックスでいじけていたところへ、近習の片倉小十郎(かたくら こじゅうろう)から「いっそ抉(えぐ)ってしまえ」と渡された脇差で右目玉を抉り出します。

これでスッキリした政宗は、脇差の鍔を眼帯代わりにつけて元気を取り戻し、英雄的な活躍を見せた……となっていますが、昭和四十九1974年に政宗の墓を発掘、その遺体を調査したところ、右目玉は眼窩に残っていたそうです。

つまり失明したのは事実ですが、目玉は摘出しておらず、また史料や肖像画(※)を見ても眼帯を使用していた様子はなく、後世の創作であることが判ります。

「眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗」のページです。デイリーニュースオンラインは、伊達政宗戦国武将戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧