これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人 (2/4ページ)

Japaaan

守護大名としても中央の公家とコネが作れるため願ったり叶ったりで、甲斐国の守護大名であった武田信虎(のぶとら)もまた、嫡男・晴信の元服(成人)に際して三条家の姫を嫁(息子の妻)に迎えます。

※一説には、晴信は元服前に武蔵国の大名・上杉朝興(うえすぎ ともおき)の娘を娶っていたとも言われ、子供がないまま早くに亡くなっているようです。

若き日の晴信。Wikipediaより。

時は天文五1536年7月。三条夫人と晴信は共に16歳、まだあどけなさが残るおままごとみたいな夫婦だったことでしょうが、二人の前途に立ちふさがる運命など、まだ知る由もありません。

夫婦仲は円満で、結婚三年目の天文七1538年に念願の嫡男・太郎(後の武田義信)が誕生。続いて天文十1541年には次男の次郎(後の海野信親、竜芳)も生まれますが、次郎は生まれつき目が悪く、ほどなく失明してしまいます。

その後も天文十二1543年に三男の三郎(後の西保信之)、同年中に長女(後の黄梅院)と相次いで生まれ、やがて次女(後の見性院)と、合計3男2女に恵まれるには恵まれました。

ただし、この中で天寿を全うできたと言えるのは、末娘(次女)ただ一人です。

父と子供たちを次々喪い……

「父上……っ!」

不幸の始まりは天文二十1551年。

「これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人」のページです。デイリーニュースオンラインは、三条夫人武田氏戦国時代武田信玄女性カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る