これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人 (4/4ページ)

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闘病と陣頭指揮を続ける信玄公に傍近く仕えたため、やがて自身も労咳(肺結核)に感染してしまい、元亀元1570年7月28日、50歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

エピローグ

信玄公の死後、跡目を継いだ武田勝頼(かつより。諏訪御料人の子)の代に武田家は滅亡。天正十1582年3月、甲斐国へ乱入した織田信忠(おだ のぶただ。信長の嫡男)らによって出家していた竜芳(次郎)は殺されてしまいます。

次女は徳川家康(とくがわ いえやす)によって身柄を保護され、江戸時代初期の元和八1622年まで生き永らえることができました(夫・穴山梅雪は「本能寺の変」のどさくさで殺されています)。

世に美人薄命と言うように、とかく若くして亡くなった者には同情が集まりがちですが、長く生きればそれだけ辛いことも多いもの。

戦国女性の習いとは言え、皆それぞれに辛い人生を歩んだ(イメージ)。

不幸を比べても意味はないものの、我が子に将来の希望を託して世を去った諏訪御料人よりも、相次いで我が子を失い、将来の希望を絶たれてしまった三条夫人の方が、より深い悲しみを味わっていたように思えてなりません。

そんな三条夫人の墓は円光寺(現:山梨県甲府市)にあり、今も信玄公の遺徳を慕う人々によって供養されています。

※参考文献:
上野晴朗『信玄の妻―円光院三条夫人』新人物往来社、1990年

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