我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期

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我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期

男色(だんしょく。男性同士の恋愛)と聞くと、往々にしてたくましい男性となよやかな男性のカップルを想像しがちですが、片方が足手まといになるようでは、血で血を洗う戦国乱世を生き抜けません。

平素は愛情を育みつつ、いざ有事には主君の楯となれるよう鍛錬に励み、また主君もそうした屈強な者たちを寵愛したものでした。

しかし、大坂の陣を最後に大規模な戦乱が終息(元和偃武)。泰平の世が訪れると次第にそうした風潮は廃れ、主君たちは女性的な美しさを求めて柔和な者たちを身辺に侍らせるようになりますが、そんな中でも武骨に愛情を育み続けるカップルもいました。

堀田正盛。Wikipediaより。

そこで今回は、戦国乱世も遠く過ぎ去った江戸時代、文字通り命がけで主君を愛し続けた堀田正盛(ほった まさもり)のエピソードを紹介したいと思います。

徳川家光の寵愛を受け、異例のスピード出世を果たす

江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)が男色を好むあまり、なかなかお世継ぎが生まれず、乳母である春日局(かすがのつぼね)が苦労した話はよく知られています。

徳川家光のエピソード

家光はどちらかと言えば屈強な男性を好んだようで、もしかしたら幼少時に自分を可愛がってくれた偉大な祖父・徳川家康(いえやす)のような「英雄」への憧れがあったのかも知れません。

さて、そんな家光が元和九1623年に征夷大将軍となると、15歳の正盛(慶長十三1609年12月11日生まれ)を小姓に取立てて寵愛、5千石の領地を与えます。

徳川家光。Wikipediaより。

実はこの正盛、以前に加賀国の前田家へ仕官を望んだものの色黒であったために断られており、そこが却って家光の目に留まったと言いますから、まさに「塞翁が馬」と言えるでしょう。

それからと言うもの、正盛は目を見張るスピード出世を果たしますが、ざっと年表にしてみると、その凄さが実感できます。

寛永三1626年(18歳)
……小姓番頭に就任、加増されて1万石の譜代大名に

寛永十1633年(25歳)
……六人衆(後の若年寄)に就任、加増されて2.5万石の城主格に

寛永十二1635年(27歳)
……老中に就任、加増されて3.5万石の城主(武蔵川越藩主)に

寛永十五1638年(30歳)
……大政参与として老中の実務を免除され、加増されて10万石(信濃松本藩主)に

寛政十九1642年(34歳)
……加増されて11万石(下総佐倉藩主)に

これは正盛が春日局の孫に当たることを加味しても異様な早さですが、その一方で悲劇も生み出してしまいます。

正盛の父・堀田正吉(まさよし)は、嫡男のスピード出世を喜ぶ一方で、それを妬む者たちにとって攻撃の的となっていました。

「……卑しい家柄のくせに!」

本人に手が出せないなら、その親しい者を攻撃するのがいじめのセオリーですが、身分の低い自分が足手まといになりたくない……そう思った正吉は、寛永六1629年に自害してしまったのです。

息子の栄達を願い、足手まといとならぬよう自害した正吉(イメージ)。

「父上……っ!」

悲しみに沈んだ正盛が選んだのは、陰険卑劣な連中に対する復讐ではなく、より一層奉公に精進し、御家と子孫を繁栄させること……果たして異例の大出世を果たし、5人の男児にも恵まれてそれぞれ栄達したのでした。

長男・堀田正信(まさのぶ)……正盛の後継者
次男・脇坂安政(わきざか やすまさ)……信濃飯田藩主など
三男・堀田正俊(まさとし)……大老、下総古河藩主など
四男・堀田正英(まさひで)……若年寄、常陸北条藩主など
五男・南部勝直(なんぶ かつなお)……陸奥盛岡藩主(ただし夭折)

武家の次男坊以下というものは、一生涯にわたって冷や飯食いを強いられがちですが、五人が五人とも藩主の地位を用意されたのは、それだけ家光の恩寵が深かった証左と言えるでしょう。

上様が愛したこの肌を……家光の死に殉じた正盛

さて、そんな正盛は慶安四1651年4月20日に愛する主君・家光が亡くなると、その日の内に切腹、殉死してしまいました。享年44歳(※誕生日前なので、満年齢+2歳でカウント)。

男色によって出世した者は、主君の死に殉じなければならない……もちろん不文律ですが、ここで命を惜しんだら、待っているのは次期主君による冷遇と、周囲からの迫害ばかり……「二代にわたっていい思いをするなんて許せない」という一種の圧力があったようです。

しかし、正盛は言われるまでもなく、むしろ止められても「後を追う」気満々だったようで、家光の危篤に際してはすぐに腹を切れるよう、万端の準備を整えてありました。

「……しからば」

「うむ」

いよいよ切腹の段となりましたが、正盛は(普通は上半身をはだける)死に装束を脱ごうとしません。

「いかがなされた……上を脱がねば腹が切り難かろう」

まさか、この期に及んで命が惜しくなったのではあるまいな……介錯人(切腹した者が長く苦しまぬよう、斬首してやる役)が内心で嘲笑ったところ、正盛はこう言いました。

この肌は……我が愛する上様(家光)以外の、誰の目にも触れさせとうないのじゃ……このまま(着衣で腹を)切るゆえ、構わず(介錯を)進めよ」

着衣のまま切腹した正盛(イメージ)。

お側へ上がって以来数十年間、上様がこよなく愛し、その指が触れなかったところはないこの肌を、人目に穢すことなく冥土までお届けしたい……その願いは、どこまでも家光への愛情にあふれるものです。

「……相分かった」

かくして愛する家光の後を追った正盛の辞世がこちら。

ゆくかた(行方)は くらくもあらし(暗くも非じ) 時をゑて(得て)
うき世(浮世)の夢の 明ほのゝそら(曙の空)

【意訳】死ぬと言っても怖くはない。あの方のお側へ行けるのだから

さりともと おもふもおなし(思うも同じ) ゆめなれや
たゝことの葉そ(ただ言葉ぞ) かたみ(形見)なるらむ

【意訳】そうは言ってもやはり悲しいが、あの方がくれた愛を頼りにその後を追おう

正盛の墓は江戸の東海寺(現:東京都品川区)にあり、日光の輪王寺(現:栃木県日光市)に眠る家光とは遠く離れているものの、二人の心はきっと通じ合っていることでしょう。

※参考文献:
高野秀行・清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』集英社インターナショナル、2015年8月
山下博文『遊びをする将軍・踊る大名』教育出版、2002年6月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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