即身仏になることが何を意味し、そこにはどんな目的があったのか (2/3ページ)

心に残る家族葬

悟りを開き輪廻の輪から解放されることを解脱といい、これを成し遂げた者は「仏」と呼ばれる。仏典では「三劫成仏」といって気が遠くなるような長い時を経てようやく成仏できるとする。

しかし、普通の衆生にそんなことができるわけがない。そこで浄土信仰が生まれた。生きている間に成仏はできずそのままにして死ねば次の輪廻転生が待っている。そこで浄土に往生するよう祈り、浄土で成仏するための修行を積むのである。極楽浄土などは一般的には天国のような楽園をイメージする人が多いが、実は寿命の期限を気にせず仏になるための修行をする新たなステージなのである。いわゆる極楽往生とは極楽浄土に往き修行することを指す。天国のイメージは仏教では天界(天道)が相応する。苦しみの無い快楽に満ちた世界だが、「楽」や「快」に囚われている意味では悟ってはおらず、人間界や地獄と並ぶ世界に過ぎない。

■生きて仏になることを説いた空海

これに対し空海(774〜835)は死んで成仏しても意味がないとし、生きたこの肉体を持って仏になることを説いた。空海が創始した真言密教では精密なカリキュラムを経て、密教の教主であり絶対的真理の象徴、大日如来と身体を持ったまま一体となり、生死の輪廻を超越するという。抽象的かつ難解ではあるが、少なくとも空海が即身成仏について書いた「即身成仏義」にはミイラになれとは一言も書いていない。

■生きている空海

即身仏は明らかに空海の説く即身成仏の定義からは外れている。ミイラとは保存された死体であるわけだが、空海本人はまだ死んでいない。彼はまだ肉体を持ったまま生きているとされる。高野山の奥の院にある大師霊廟には1000年を経て今なお、空海は生きて禅定に入っていると信じられている。空海の元には維那(いな)と呼ばれる世話係によって毎朝2回食事が運ばれている。その真実を維那に聞いてももちろん答えてはくれない。

即身仏がこの伝説に触発されたことは確かだろう。空海には及ばずとも、それに近い境涯を目指した末の答えが即身仏なのかもしれない。

これはこれで信仰の形である。しかし即身成仏とは本当にそのような意味なのだろうか。即身=肉体を持ったままとの語が、肉体をこの世に保存しておく状態を指すとは思えない。

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