打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【中編】

Japaaan

打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【中編】

尾張国の大名「織田信長」を伴って上洛を果たした「足利義昭」は室町幕府15代将軍に就任した。お互いの利害の一致から協力関係にあった義昭と信長だったが、時の経過と共に少しずつ関係性に亀裂が見えはじめる。

【中編】では対立関係となった2人の行動をご紹介していく。

前回の記事はこちら

打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【前編】

義昭VS信長の経緯 ①殿中御掟(でんちゅうおんおきて)

伊勢国における一件後の1569年と70年。信長は義昭に対して「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を承認させている。これは信長から義昭に対する将軍権力と政治権限を制限するための規定であった。

義昭は信長の要求をのみ掟を承認する。殿中御掟は一方的に信長有利の掟というわけではなく、信長も義昭の求めた室町幕府内の身分秩序に自らを位置付けるという要求を受け入れている。しかし、これらの掟を義昭が遵守したわけではないようで、以後の対立関係のきっかけとなった出来事には違いない。

尾張国の大名「織田信長」Wikipediaより

②第一次信長包囲網

1570年。同盟関係にあった近江の浅井家が裏切ったことによって信長は四方を敵に囲まれることになる。浅井、朝倉両軍に加え、三好三人衆や石山本願寺、伊勢長島一向一揆衆などが反信長を掲げた(第一次信長包囲網)ことで窮地に陥った信長は、義昭に和睦の仲介を依頼している。

この時期の義昭は、信長の要求を受け和睦の助力を行ったり、反信長を掲げた松永久秀の討伐に兵を送るなど、表向きは信長に対する協力関係が確認できる。

しかし一方では、信長の意に反して諸大名に「御内書(ごないしょ)」と呼ばれる将軍自身による私的性の強い命令書を発行しており、信長に対する反感は増大していたことが伺える。

③十七条の意見書

1572年(73年説あり)。自身の意に沿わない外交活動を行っていた義昭に対して不満を募らせた信長は、「十七条の意見書」を送付する。これはいわば義昭に対するダメ出し的な内容で、政務や財務、生活に至るまで、義昭に対する信長の不満が書き連ねられている。

④決別

十七条の意見書の後、義昭は挙兵。1572年を過ぎると反信長勢力の動きは活発となる。中でも甲斐国の「武田信玄」は信長にとって脅威であった。1573年、信玄は信長と同盟関係にあった徳川家康を三方ヶ原の戦いで破る。この戦いには信長も援軍を出しており軍事的に痛手を追っている。一説には、義昭は信長軍の大敗を知ったことで信長との協力路線を明確に放棄する決断をしたといわれている。

信長と決別した義昭。【後編】では2人の対立からその後の人生をご紹介する。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【中編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、信長包囲網室町幕府足利義昭戦国時代織田信長カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る