精神保健福祉士が考えるキューブラー・ロスの死への第5段階「受容」 (2/2ページ)
更に、家族を遠ざけるようになり、死を穏やかに受容するができなくなってしまったという例であった。
■延命を望む家族と望まない本人だった場合にどうするべきか
ケーススタディとして、ここからどう家族関係を回復する術を考えたい。まず、自分でできる選択があるにも関わらず知らないところで自分の意向とは反対の話を進められてしまっていたと知った時のその嫌悪感を、想像してみよう。
人生の最期において、信頼している家族によって、だ。次に、治療を受ける本人の選択における主語は誰であるか。最期が近い人の延命治療は、身体的に耐えがたい痛みを伴い、精神的に追い詰められてしまうことが多いのだそうだ。延命治療は、その名の通り命を長く続かせる治療であるが、そこに伴う本人の痛みを無視した決定、本人が受け入れない医療行為はするべきではない。この例では、家族が本人の意向を尊重し、本人が望まない延命治療はしないことを約束するべきであった。「選択を違えると、人生の最期が苦痛になってしまいかねない。」キューブラー・ロスの一言が、重くのしかかる。
■完全に一致することはないかもしれないがそれでも一緒にいることが重要
「もうがんばれない」ーーこの言葉は、何かの終わりに対する絶望を表しているのではないという。一方で、闘病の終わりが受容というわけでもない。これは本人にしか分からないのかもしれない。「分かるよ」という言葉の危険性について考えたことがある人なら、きっと察しているかもしれない。本人の立場と完全に一致した状態になることができず、本人と同じように経験し考えたわけではないのに分かると言うことは、時に無責任として捉えられてしまう可能性があり、注意が必要な言葉である。
筆者は、医療現場や福祉施設においてこそこのような言葉は避けなくてはならないと学んだことがあり、自分の言葉に非常に注意を払いながら過ごした時間があった。自分ではない誰かとの認識が完全に一致することはない。この学びは、悲しむべきことではなかった。むしろ、分からないからこそ人と人は一緒にいられるのかもしれないと考えた。
■本人が「もう頑張れない」と言ってきたら…
「もうがんばれない」などの突然発せられる言葉は、本人からの別れの挨拶のような言葉なのかもしれない。それに対して「そんなことない」と否定せず、かといって「もう十分がんばったよ」と同意もしないでよいのである。正確に答えることが正しいのではなく、全てでもない。その代わり、あなたからも伝えてみるのはどうだろう。
分からなかった。だから話せそうなら聞かせてほしかった。でも、もう十分しゃべってくれたよね。ありがとう。黙っていて大丈夫だよ。今までもそばにいたし、これからもそばにいる。