幕末最大の悲劇「水戸天狗党の乱」武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜! (2/3ページ)
その頃、天狗党で頭角を現した藤田東湖の四男である藤四郎はまだ、長州藩の尊攘派が京で健在な折、慶篤の供で上洛し、諸国の尊攘派藩士と交際し、いっぱしの革命家だった。
そして、長州藩が政治の表舞台から去ったあと、尊攘派にとって希望の星となったのが水戸藩だった。翌元治元年三月、藤四郎は参謀格として水戸町奉行の田丸稲之衛門を首領に、亡き斉昭の位牌を奉じ、幕府に攘夷の決行を迫るために筑波山で挙兵。これが「天狗党の乱」という悲劇の始まりとなる。
当時、攘夷派は横浜鎖港(開港場、横浜の閉鎖)を幕府に求め、天狗党もむろん、同じ主張を取った。
彼らが日光東照宮で攘夷を祈願し、太平山(栃木市)で同志を募る一方、激派の動きを「徳川親藩の地位をわきまえず、将軍家や国家を危うくする」と考えた藩士らは、門閥派重臣の市川三左衛門らの支援を受け、大洗に集まって、これまた同志を募った。藩校弘道館の諸生が多く、彼らは諸生派と呼ばれる。
一方、将軍後継職の地位にあった一橋(徳川)慶喜(のちの一五代将軍)は、幕政に何かと口出しする薩摩の島津久光ら諸侯を押さえるため、実現不可能であると知りながら、横浜鎖港を政治利用することを画策。慶喜は、諸侯の反対を押し切り、鎖港を実現しようとするポーズを取った。慶喜は斉昭の七男で、一橋家に養子に入った経緯もあり、天狗党の面々が横浜鎖港を主張する彼に期待したのも無理はなかった。
だが、横浜鎖港はあくまで慶喜の政治の道具。彼にすれば、本気で鎖港を求める天狗党は自身の政治的な立場を悪くする存在でしかなく、幕府は天狗党の追討を決意する。
一方、門閥派重臣の市川と諸生派も党をなし、幕府が天狗党追討の意思を固めると、江戸を進発。途中、幕府の追討軍や諸藩の兵が加わり、その軍勢は数千を超えたが、元治元年七月に下妻で天狗党に敗れ、市川らは水戸に帰った。
■慶喜は天狗党について死ぬまで口が重かった
一方、天狗党の面々も水戸城下に迫ったが、市川と諸生派は彼らを追って水戸城を占拠。市川らはこうして藩庁から反対派を排除することに成功した。