幕末最大の悲劇「水戸天狗党の乱」武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜! (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 幕末の水戸藩士に武田耕雲斎という男がいる。父は跡部正続。もともとの名を跡部彦九郎正生という。

 耕雲斎は跡部家の宗家を継いだものの、この姓を嫌い、父が跡部家の主筋である甲斐武田の流れだったことから武田姓に改めた。その理由は、武田勝頼)の重臣だった跡部勝資が武田を滅ぼした佞臣といわれたからで、耕雲斎は藩の執政として敏腕を振るったが、水戸天狗党の首領として幕府軍に追討され、まともに取り調べを受けることもなく斬首された。

 では、先祖が佞臣といわれることを嫌った耕雲斎はなぜ、反逆者の烙印を押される悲劇に直面したのか。

 享和三年(1803)に生まれた彼が耕雲斎を名乗ったのは弘化元年(1844)のこと。この年、藩主の徳川斉昭は自身の改革に反発した藩内の門閥派が幕府を中傷したことで、退任と謹慎を言い渡されて失脚し、連座する形で罪に問われた藤田東湖ら改革派(尊王攘夷派)の藩士の一人が耕雲斎で、その際に号した名がそれだった。

 そして、門閥派はこの内紛の過程で、改革派の面々が学問を鼻にかけて天狗になっているという意味から彼らを「天狗党」と呼んだ。

 その後、天狗たちのボスだった東湖が安政大地震(1855)で亡くなると、耕雲斎は藩主の慶篤から信任されて執政となり、新たな指導者の一人となった。

 一方、天狗党の面々と門閥派の内紛は以降も継続。特に攘夷の風潮が高まるにつれ、天狗党の内部で激派(過激派)の勢いが増し、その脱藩浪人らが桜田門外で、幕府大老だった井伊直弼を殺害。この桜田門外の変が起きた万延元年(1860)七月、激派は品川沖に停泊する長州藩の軍艦丙へい辰しん丸まるの船上で、尊攘派である彼らと秘かに盟約を結んだ。これを「丙辰丸の盟約」「水長盟約」という。

 こうした中、激派は盟約に基づいて行動したが、文久三年(1863)八月一八日の政変で長州藩と尊攘派の公卿が失脚すると、様相が一変。

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