幕末最大の悲劇「水戸天狗党の乱」武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜! (3/3ページ)
この間、耕雲斎は藤四郎らの動きに賛同せず、むしろ、諭す側にいた。
八月四日、水戸藩の支藩・宍戸藩主の松平頼徳が天狗党を鎮撫するために水戸に向かうと、江戸にいた耕雲斎も天狗党に合流。しかし、頼徳が市川らの奸計に嵌って幕府から切腹を命じられ、耕雲斎らは窮地に追い込まれ、彼は慶喜を頼ろうとした。
京の慶喜に会い、自分たちは烈公(斉昭)の遺志を継いで尊攘の大義を貫こうとした者であり、かつ奸計に嵌って幕府の罪を得た者と訴えようとしたのだ。
こうして耕雲斎は成り行き上、天狗党の首領に担ぎ出される。彼が率いて京を目指すことになった天狗党は一〇〇〇余の大集団。いわば軍勢で、当然、各地で幕府の命を受けた諸藩の兵と戦い、突破して進まなければならず、「慶喜公に弁解するため」といっても、事実上は反乱行為だ。
一方、慶喜は二月三日、自ら追討の兵を率いて出兵。これを知った耕雲斎は敦賀に来て加賀藩に投降した。
その加賀藩は彼らを「賊」として扱わなかったが、身柄が幕府の追討軍に預けられると、扱いは一変。彼らは鰊蔵に押し込められ、たいした取り調べが行われることもないままに処分が下り、翌慶応元年(1866)二月、一部の農兵を除き、ことごとく処刑か流罪となった。
むろん、横浜鎖港を求める天狗党にとって、その政策を進めようとする慶喜は頼もしい同志に映っただろう。
だが、彼に政治利用された結果、梯子を外される形で幕府の追討を受けて賊軍となり、最後は慶喜自身に追討されたのだ。
つまり、水戸藩の内紛が高じた事件とはいえ、悲劇を生んだ元凶は慶喜自身だった。彼は明治維新のあとまで生きたが、天狗党のことを聞かれると、口が重かったとされる。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。