人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

1582年に信長が横死すると、村重は堺に戻り居を構えたという。晩年は秀吉の元で茶人として活動したという記録も残っている。1586年に堺で死去。享年52。

有岡城の戦いの記念碑(Wikipediaより)

謀反の謎

村重が信長を裏切った利用は現在でも判明していない。謀反の理由には信長との不仲説や、足利義昭の陰謀説など諸説あるが、どれも確証は得られていない。

比較的信憑性の高いものとして、摂津国の支配体制に関する説を上げることができる。摂津国は土着の国衆の勢力が強く、摂津を支配下に収めようとしていた信長に対する反感の気運が高い土地だった。

摂津国を任されていた村重は、信長と自国勢力との間で板挟みとなり、結果的に信長を裏切る選択をしたというものだ。

逃亡の理由

謀反の理由は定かでないが、戦国の世における裏切りや下克上は珍しいことではない。村重に関して特徴的であるのは、むしろ「逃亡劇」だろう。

武士である村重が、自身が逃亡することによる人質の運命を予期できないはずはない。人質を犠牲にしてまで逃亡したのは、村重自身が臆病者であったからなのか。

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