本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

藤孝の功績とは

いち早く光秀に味方しないという意思表示をし、徹頭徹尾それを続けたこと

に他なりません。

繰り返しになりますが、世間は藤孝と光秀を一蓮托生と見ていました。

しかし、その藤孝が光秀に付くことを拒んだのです。そのことは世間に

「藤孝ですら光秀に味方しないということは、光秀に勝ち目はないということか?」

という印象を与えます。その結果、京・大阪周辺にいた有力武将たちのほとんどは光秀ではなく秀吉に付きました。

倫理的には主君である織田信長をだまし討ちした光秀に付くという選択はあり得ません。しかし、そこはあくまで本音の建て前。光秀が有利と見たら、勝ち馬に乗ろうとする武将出てくることは想像に難くありません。
藤孝はその流れを完全に断ち切ったのです。

戦場における戦術レベルの活躍ではなく戦略あるいは政略レベルで、藤孝は秀吉の勝利に大きな貢献をしたのでした。

藤孝はなぜ決断できたのか?

光秀の敗死という結果を知っている私たちにとって、光秀に付くという選択肢が間違いであることは明白です。

しかしリアルタイムで巻き込まれている人たちはそうではありません。

「本能寺に宿泊中の織田信長が、明智光秀に攻められて死んだ」

という事実ですら、当初は正しく伝わっていませんでした。
これを機に明智政権が誕生する可能性だって十分に考えられたのです。

しかし藤孝は「光秀に味方しない」と即断し、それを貫きました。

それが可能だった理由のひとつに、本能寺の変に関する正確な情報を手にしていたということが挙げられます。

実は本能寺の変が起きたまさにその時、藤孝の家臣である米田求政がたまたま京に滞在していました。米田は現地で可能な限りの情報を収集し、藤孝に急報しました。藤孝に第一報をもたらしたのは米田だったのです。

もしも第一報が光秀からもたらされていたら、当然その情報は光秀に有利なものに改ざんされている可能性を考慮しなければなりません。おそらく、他のルートからも次々と不確かな情報はもたらされるでしょう。

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