本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】 (3/4ページ)
信頼できる部下から確かな情報を得ていたこと。それが藤孝の決断を支えていたことは間違いありません。
ファクトとロジックに基づく状況判断そして情報を受け取った藤孝は、光秀に味方しないことが細川家にとって最善であることに気付いたはずです。
藤孝が光秀に味方した場合ある程度光秀に付く勢力は出てくるだろうが、最終的な勝敗がどうなるかは不透明。
勝てば良いが、負けたら光秀もろとも滅びるしかない。
光秀は味方を失い確実に敗れる。
それによって光秀を倒した誰か(結果的に羽柴秀吉でしたが、柴田勝家や徳川家康という可能性も考えられました)に恩を売ることができる。
もちろん、光秀が単独で勝利する可能性もありました。その場合はこれまでの関係や、たまの存在を材料に交渉すれば、細川家の存続は勝ち取れるだろう。藤孝は腹を切らざるをえないかもしれないが……くらいのことは考えていたと思います。
本能寺の変直後の藤孝は、ファクト(正確な情報)を手に入れ、ロジックに基づいて正しい決断を下した。
そして揺らぐことなく、決めたことを徹底して実践した。
それが細川家の存続と発展に繋がったのです。
ところで、ひとつ興味深い事実があります。
信長の四十九日にあたる7月20日に、藤孝は本能寺の焼け跡で信長を追悼する連歌会を開催しました。
連歌とは参加者が和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)をリレー形式で作っていくというもので、単に和歌の会というだけでなく、出陣前のゲン担ぎや神への供物、そして死者を追悼するという性格も持っていました。
信長の葬儀については羽柴秀吉が大々的に行ったことが知られていますが、自身が信長の後継者であることを内外に宣言するために行われた政治的なパフォーマンスという側面が大きいとされています。
一方、藤孝が執り行った追悼連歌会には政治的な意義はなく、純粋に亡き主君を慕う思いから出たものであると考えられます。