池上彰が自身の“働き方改革”を初解説!NHK時代と社会貢献【全文公開】 (2/4ページ)
犯人が逮捕され、人質が解放されるまでの218時間、連日テレビ中継され、NHKと民放を合わせた視聴率は90%を超えた。
「大学に入ってから、新聞記者になりたいという小学生の頃の夢を再び持ったのですが、この中継を見て、これからはテレビの時代になるかもしれないと思いました。またNHKでは新人が入社すると必ず地方勤務になるので、地方記者になりたいという夢が叶えられると思ったんです」
記者として採用となったNHKでの初任地は、島根県の松江放送局だった。そして3年後、広島県の呉通信部へ異動になる。当時は暴力団の抗争事件など、体を張った取材の日々を過ごしたという。
「まさに小学生の時にあこがれた、地方記者になりたいという夢が叶ったのです」
東京に戻ってからは、報道局の社会部で警視庁捜査一課の担当になり、殺人、強盗、放火、誘拐の専門記者という過酷な仕事を任せられた。
「冬の深夜、捜査員が自宅に帰ってくるのを家の前で待って情報を聞き出そうとする、いわゆる夜回りは辛かったですね。その後、気象庁の担当になります。予報官ではありませんが、台風情報など、気象情報を伝えるという夢が、ここでも思いがけず叶いました」
94年から05年まで「週刊こどもニュース」のお父さんとしてNHKの顔となった池上氏は、番組終了と同時にNHKを辞め、フリーになった。
「54歳の時、早期退職制度を利用してNHKを辞めました。私はずっと現場に出て、人と会って取材する仕事をしたかった。NHKで唯一それができるのが解説委員なのですが、ある時、解説委員長から『お前には専門分野がないから、なれない』と言われてしまった。ショックでした」
「生涯一記者」を貫くことができる解説委員になる希望が絶たれたことが、NHKを去る大きな理由だったという。
「フリーになってすぐ、イラン行きを決めました。その頃、核開発疑惑が騒がれ始めていたので、いずれ大きなニュースになると思ったんです」
イスラエルやパレスチナ、バルカン半島にも自費で取材に出かけたという。
池上氏はフリーランスという個人事業主になって、「自分」というブランドを意識するようになった。