戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」 (2/4ページ)

Japaaan

明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【前編】

信長の死をきっかけに隠居して幽斎と称することになった彼は、家督を息子・忠興に譲り、自身は秀吉の顧問のような形で遇されていました。

そして秀吉の死後に起きた徳川家康と石田三成の対立では、忠興が三成と犬猿の仲であったこと、幽斎・忠興親子がともに家康と親しかったこともあり、細川家は迷うことなく家康派に合流。

三成が大阪で兵を挙げたその時、忠興は細川家の主力を連れて家康とともに関東へ出陣しており、幽斎はわずかな守備兵とともに領地である丹後(京都府北部)を守っていました。

位置関係を見れば明らかなように、家康は遠く関東にいます。(家康には他にも福島正則、黒田長政ら諸大名が付き従っていましたが、今回は細川家の話なので省略しています)

いずれは戦場で雌雄を決することになるでしょうが、まだ時間的な余裕はありそうです。
その間に三成は近畿地方の東軍勢力を制圧し、足場を固めることを企図します。

細川家が治める丹後国もそのターゲットになったのです。

開戦、そして

三成の挙兵を知った幽斎は、遠からず丹後への侵攻があることを予見します。先述の通り細川家の主力は当主・忠興と共に関東にあり、丹後にはわずかな兵しか残っていません。

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