戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」 (4/4ページ)

Japaaan

崇禅寺のガラシャの墓(Wikipediaより)

どちらが真相だったにせよ

「細川家当主の妻が、人質になることを拒んで命を落とした」

という事実に間違いはありません。そしてガラシャが死んだ以上

「細川家の先代当主が、命を惜しんで降伏した」

などとなっては、これまで積み重ねてきた名声のすべてを失い、社会的には死んだも同然になってしまいます。

あるいはそうした打算を抜きに、不幸な死を遂げた嫁への義理立てという側面もあったのかもしれません。

いずれにせよこの状況下では徹底抗戦以外の選択肢はなく、兵力差が圧倒的な以上、死は免れない。できるのは死に方を選ぶことだけ……となるはずでした。他の武将であれば。

しかし、細川幽斎だけは違ったのです。

次回【京からの使者、天皇動く】に続く

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