戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」 (3/4ページ)

Japaaan

「兵力を分散しては各個撃破されるだけだ」

そう判断した幽斎は、主城である田辺城にすべての兵力と物資を集中し、籠城することを決断します。さらに幽斎を慕う僧や農民、商人なども志願兵として集まり、田辺城の兵力はかろうじて500人に達しました。

一方の西軍は1万5千。続々と丹後国内に侵入し、田辺城を包囲。7月22日には攻撃が始まりました。

細川軍は幽斎の指揮の下、寡兵ながらよく戦いました。

当代随一の文化人であった幽斎は交友関係も広く、包囲軍の中には彼を師と仰ぐ人物も少なくありませんでした。そのため攻撃側が手心を加えたという説もあります。

しかし圧倒的な兵力差は如何ともしがたく、このままでは落城は必至ということは誰の目にも明らかでした。

降伏という選択肢

そんな状況下で、降伏するという選択肢はなかったのでしょうか?

幽斎が選択肢として考えなかったとは思えませんし、西軍からも何らかの形で降伏勧告はなされていたでしょう。

しかし、それを選ぶことはできませんでした。降伏すれば、これまで積み上げてきたすべてを失うことが明白だったからです。実は西軍が丹後に侵入する少し前、大阪では一人の女性が命を落としていました。

彼女の名はたま。洗礼名のガラシャで知られる、忠興の正室でした。

挙兵した石田三成は、大阪にいたガラシャを人質に取ろうとしました。
忠興は愛妻家(しかもちょっと度を過ぎるくらいの)として知られていたので、成功していれば忠興と細川家の面々には大きなプレッシャーとなったことでしょう。

が、その目論見は外れます。

ガラシャは人質に取られるくらいならと、自ら死を選んでしまったのです。ガラシャ自身の意思ではなく、忠興の指示(妻を他の男に取られるくらいなら殺す)だったという説もあります。

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