源平合戦「水島の戦い」最大の謎!平氏圧勝の要因は「日蝕説」の真実 (3/3ページ)

日刊大衆

 確かに山国の武士らがただでさえ不慣れな海戦の最中、空に突如、「黒い太陽」が現れれば、驚くどころか、恐怖に駆られて逃げ出すことも考えられ、合戦の勝敗に日蝕が無関係だったとは言いづらい。

 ただ、一方で、海戦に慣れた平氏の軍船は、それぞれ板を渡して互いにしっかり結びつけ、船上が平坦に保たれるように工夫されていたという。

 しかも、源氏方の軍勢は前述のように平氏の半数で、そうした悪条件に突如、日蝕が重なったことになる。

 だとすれば、日蝕が起きた際、すでに合戦の大勢は決し、これが追い打ちをかけたとは言えないか。

 義仲軍はこうして撤退せざるを得ず、平氏に巻き返しのチャンスが到来。事実、平氏は元暦二年(1185)二月、頼朝の軍勢に敗れるまで屋島の拠点を守り続けた。

 一方、義仲は水島の合戦に敗れたことから都で窮地に陥り、やがて頼朝が派遣した源義経(頼朝の異母弟)に宇治川で敗れ、近江で討ち死。

 義仲にとっても潮目を分ける合戦となったが、彼らは屋島攻撃のために水島に陣取り、島を正面から攻めようとしていたことにある。

 義経はこの一年半後、紀伊水道を渡海して阿波に上陸。背後から屋島を攻め、たちどころに平氏を壇ノ浦に追った。

 軍事的天才といわれる義経と義仲の器量の差というべきか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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