瀬戸内海を牛耳った戦国の海賊!村上水軍「謎のルーツと消滅の理由」 (3/3ページ)
結果、毛利と村上水軍は本願寺に兵粮を補給することに成功したばかりか、大坂湾の制海権も確保。
■秀吉の天下統一により終焉のときを迎えた!
一方、織田勢が毛利攻略を本格化させると、司令官だった羽柴秀吉が巧みに村上氏らを懐柔。
来島村上氏がまず、織田方に属し、宗家である能島村上氏の武吉と元吉の父子にも天正一〇年(1582)四月一九日付で、秀吉からの書状が届き、その文面から同様に懐柔されつつあった事実を確認することできる。
こうした中、同年六月に本能寺の変が発生。秀吉が信長の後を継ぎ、毛利氏が彼に臣従して河野氏が事実上、滅亡すると、早くから織田方となっていた来島村上氏の当主である通総は、伊予風早郡で一万四〇〇〇石を与えられた。
この来島村上氏はその後、秀吉による朝鮮出兵の際、船手衆としてその名が出てくる反面、宗家である能島村上氏は因島村上氏ともに確認することができない。
というのも、秀吉が出兵前の天正一五年(1587)六月、海賊禁止令を発布していたにもかかわらず、村上元吉が当時、海上で関役を徴収する海賊行為を行っているとして、その逆鱗に触れたためだ。
こうして能島村上と因島村上氏の組織は事実上、解体させられ、江戸期にはそれぞれ毛利氏(長州藩)の船手組として、かろうじて海賊時代のよすがを残すだけとなった。
一方、来島村上氏は関ケ原の合戦(1600年)のあと、内陸部の豊後玖珠郡に転封となり、森藩(玖珠町)として残ったものの海とは切り離され、秀吉の天下統一とともに、海賊の時代もこうして終焉した。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。