瀬戸内海を牛耳った戦国の海賊!村上水軍「謎のルーツと消滅の理由」 (2/3ページ)

日刊大衆

 一方、因島村上氏の初出は室町時代の応永三四年(1427)で、彼らは遣明船を警固し、三島村上氏はいずれも海の傭兵的な役割を担い、伊予の河野氏と繋がりが深く、特に来島村上氏は同氏で内紛が起きた際、当主である河野通直を島で保護。当時の来島村上氏の当主が通康で、河野一族の通字を賜ったことからも、その関係の深さがうかがえる。

 その河野氏は戦国時代、四国で急激に勢力を伸ばした土佐の長曾我部元親に対抗するため、同じく中国地方で勢力を急拡大する毛利氏と連携。その毛利が大坂本願寺と組み、織田信長を苦しめた。

 特に天正四年(1576)、織田勢は大坂の本願寺(石山御坊)を包囲して兵粮攻めにすべく、信長は、和泉淡輪(岬町)の海賊だった真鍋氏に大坂湾の封鎖を命令した。

 全国の門徒宗(本願寺の信徒のこと)や毛利方が兵粮を海から本願寺に運び入れることを阻止するためで、こうして『村上海賊の娘』の舞台となった木津川口海戦の火蓋が切られる。

 同年七月、毛利の武将だった児玉就英が水軍を率いて、大坂湾口の木津河口に来襲。本願寺に一年分の兵粮を補給することが目的で、軍艦と兵粮船を合わせて七〇〇~八〇〇艘という大船団の主力はむろん、村上水軍だった。『武功夜話』に「上方の水軍(織田)は大船の仕立に候ところ、毛利(村上)水軍の戦振り小船……」とあり、織田水軍の主力が安宅船(戦艦)である一方、村上水軍は機動性を重視した関船(巡洋艦)だったのだろう。

 村上水軍は実際、「小船の中に十四人の舵取り掛け声もろともに櫓拍子あわせ、大船めがけて漕ぎ寄せ来たり」とされ、機動性をいかした攻撃を展開し、「数十艘八面より大船に近付き、飛び乗り切り廻し」とあるように織田水軍を圧倒。村上水軍はその際、武器についた紐を持って回し、遠心力を利用して敵船に投げ入れる当時の手榴弾「焙烙火矢」を使い、織田水軍の軍艦の大半がこの新兵器によって大破し、その将兵は「海中へ飛び入り溺死その数を知れず」とされる大敗を喫した。

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