将軍に年貢減免を直訴して処刑!?“農民の神”佐倉惣五郎「義民伝説」 (2/3ページ)

日刊大衆

惣五郎はそこでついに、「こうなっては将軍への直訴以外に方法はなく、命を捨てる覚悟である」と他の名主に伝えると、実際に直訴状をしたため、その手渡しを単身、決行。幕閣は評議した結果、願書を正信に下げ渡すことになり、惣五郎の必死の直訴が功を奏した。

 一方、江戸在府中だった正信は、国元の地じ方がた役人らの勤め方の悪さが直訴を招いたとし、彼らに即刻、「吟味してその上で自分が切腹するか、百姓たちの願いを聞き入れて年貢を父正盛時代の通りに申し付けるかを考えたい」と申し伝えるように命令した。

 すると、出府した役人らはいずれも自らの非を隠し、直訴の頭取である惣五郎を悪党として極刑にすべきと主張。正信はこの主張を受け容れ、惣五郎夫婦と子どもを、それぞれ磔刑と死罪とする処分を下す一方、百姓らは許す意向を示し、村々の願いである正盛時代の年貢に準じ、新たに課した雑税の納め方も同様にするとした。

 こうして惣五郎の自己犠牲により、年貢軽減という村々の願いがかなった――以上のストーリーは惣五郎の死から一世紀近くが経った頃に成立したとされる『地蔵堂通夜物語』や『堀田騒動記』『佐倉義民伝』などに基づき、歌舞伎の演目(『東山桜荘子』)になり、地元の成田市に宗吾霊堂(東勝寺)まで建立された。しかし、その反面、その実在性が疑われてきた。

 ところが、昭和になってから、宗吾霊堂の史料の中から、前述の公津村の土地名寄帳が発見され、惣五郎が約三町六反の田畠を持っていたことが判明した。「一反=三〇〇坪、一〇反=一町」として計算すると、およそ一万坪の農地となり、かなりの豪農と言える。

 また、史料には彼の他に三〇人の百姓の名が記載され、約三町六反よりも持ち高の多い百姓は一人だけで、屋敷の面積は全員中、最も大きく、公津村に惣五郎という名主クラスの豪農がいたことは確か。

 続いて、その名寄帳に記載された役人の名から、正信が佐倉藩主だった時代の史料であることも分かり、惣五郎は実在したことになる。

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