“ペリー来航”で開国を決断した阿部正弘は「偉人か無能な老中か」 (2/3ページ)

日刊大衆

 当時、アメリカと交渉に当たった浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門が幕閣に宛てた上申書によれば、使節の一人は日本が国書の受け取りを拒んだ場合、その恥辱をそそがなければならないとして、こう続けたとされる。

「浦賀において余義なき場合(戦争)に至り申すべし。その節に至り候とも、(降伏を含めて)用向きこれあり候えば、白旗を建て参りくれ候え。鉄砲を打掛け申すまじく」

 つまり、日本が交渉を蹴れば、戦争に突入する、ただし、降伏して白旗を掲げるなら、攻撃はしない――と恫喝したというのである。

 だが、この話はアメリカ側の記録(『ペリー提督日本遠征記』)にはなく、実際、幕府のオランダ通詞(翻訳官)が、どれだけ正確に翻訳したか疑問が残る。

 とはいえ、ペリーは浦賀に来航する前、琉球や小笠原諸島の父島にも寄港し、アメリカの海軍長官に宛てた書状から、日本が開国要求をはねつけた場合、ここを足場に武力行使を辞さない態度だったことも分かる。当然、ペリーの姿勢がここまで強硬なものでは、もはや阿部一人の決断でどうにかなる局面でもなかったのだ。

 その後、一部の狂信的な攘夷派を除き、諸外国と貿易することを是とするムードが高まって維新を迎えたことからして、阿部はむしろ、外交を大転換させた勇気ある決断を示し、翌嘉永七年(1854)三月の日米和親条約締結に至ったとも言える。

 しかも、阿部はアメリカ大統領の国書の受け取りについて、諸大名らはむろん、諸藩藩士や一般の者にまで意見を求めた。

 そして、その結果、末は江戸吉原の遊郭の主人に至るまで、実に七〇〇近い答申が出された(『阿部正弘のすべて』/『ペリー外交と阿部正弘の外交』/松本健一)とされ、すでに当時、今で言う開かれた政治を行っていたことになる。

 むろん、これが後に薩摩藩など雄藩の幕政に対する介入を招いたとの批判はあるものの、やはり柔軟な発想があったからこそ門閥によらず、優秀な人材を登用することができたのではないだろうか。

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