“ペリー来航”で開国を決断した阿部正弘は「偉人か無能な老中か」 (3/3ページ)
■老中首座を自ら退いて39歳の若さで死去した
勝海舟もその一人で、他にも川路聖謨、岩瀬忠震ら優秀な幕末の外交官、海軍の建設に尽力した永井尚志、反射炉の建造に取り組んだ江川英龍らは皆、“阿部チルドレン”と言える。
しかも、阿部は当時、攘夷派の首魁とみられた前水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命。開明的な思想の持ち主だった阿部が、政治思想の異なる集団のボスを、いわば特命大臣に指名したのである。
現代の政治の世界でも政敵を入閣させて動きを封じる策はよくあるが、当時の阿部はそういう狙いだけでなく、斉昭の影響力に期待した節があった。
ただ、その斉昭が阿部を「憤激などは致さざる性にて、申さば、瓢にて鯰をおさえ申す風の人」と評したように、温厚だが、どこかのらりくらりと捉えどころのない性格が、決断力に欠けるという誤解を招いたのかもしれない。
実際、斉昭を登用したことなどは彼に災いした。
阿部は日米和親条約が締結された翌安政二年(1885)一〇月、のちに大老となる井伊直弼(彦根藩主)ら溜詰(親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した者)の反発もあり、彼らを融和する目的で、自ら老中首座の座を退いた。
その後、それまでの心労がたたって病床に伏すと、日米修好通商条約が締結される一年前の安政四年(1857)、この世を去った。まだ三九歳という若さだった。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。