天下に号令する未来を予言?織田信長が贈り物の鷹を辞退した理由とは?

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天下に号令する未来を予言?織田信長が贈り物の鷹を辞退した理由とは?

訓練された鷹(タカ)を放って獣を捕らえさせる鷹狩り。その起源は紀元前3,000年から同2,000年ごろと言われ、日本でも古墳時代(約3~7世紀)の埴輪に鷹を手にのせたものが伝わっています。

単に食糧を調達するのみならず、飛び回る鷹を追い回しての体力錬成や、広く移動することで地形を把握し、軍略を練ることができるなど、中世の武士たちに好適なトレーニングとして、鷹狩りは広く愛好されました。

歌川芳藤「織田信長公清洲城修繕御覧之図」

戦国時代の革命児として有名な織田信長(おだ のぶなが)もその例に洩れず、鷹狩りの実利性はもとより、鷹そのものの威厳に富んだ優美さを愛し、コレクションしていたそうです。

今回はそんな信長の若き日の、鷹にまつわるエピソードを紹介したいと思います。

関東で求めた二連の角鷹を……

今は昔、丹波国穴太城(現:京都府亀岡市)に赤沢加賀守義政(あかざわ かがのかみ よしまさ)という鷹好きの城主がおり、ある時はるばる関東へ下って二連(※)の角鷹(クマタカ。熊鷹)を求めました。

(※)もと。生き物としての鷹は他の鳥と同じく「~羽」と数えますが、鷹狩りに用いる鷹については「~連or本」と数えます。鷹の足につける革紐(足緒)に由来するものと考えられます。

「いやぁ、これは実に上等な鷹が手に入った。これほどの逸品は、一国一城の主とて、そうそうお持ちではなかろう」

見事な角鷹を手に入れ、ご満悦(イメージ)。

わざわざやって来た甲斐があった……義政は得意満面で東海道をトンボ返りし、尾張国(現:愛知県西部)までやって来ました。

この地を治めるのは、家督継承戦を勝ち抜いてどうにか尾張国を統一し、「海道一の弓取り」と恐れられた強敵・今川義元(いまがわ よしもと)を撃破して間もない織田信長。

美濃国(現:岐阜県南部)へ攻め上がろうと北近江(現:滋賀県北部)の浅井長政(あざい ながまさ)と同盟を組んだころでした。

「……ふむ」

しばし尾張に逗留した義政は、信長に近づこうと考えます。まだ天下の何たるかも見えていないであろう信長に、何か見どころがあったのでしょう。

「三郎(信長)殿は、たいそう鷹がお好きと聞く。此度この二連(の角鷹)を手にせしは、そのご縁やも知れぬ」

もしかしたら、最初からその(目ぼしい者がいたらコネをつけたい)目的で、戦国大名たちが愛好する鷹を関東まで仕入れに行ったのかも知れません。

ちょっと丹波からは遠すぎて、コネがあってもアテにならなそうですが、ともあれ義政はさっそく信長に角鷹を献上する旨を申し出ました。

「天下を取るまで預けておく」

……が、返って来たのは意外な答えでした。

「志のほど感悦至極に候。しかしながら、天下御存知の砌(みぎり)、申し受くべく候間、預け置く」
【意訳】お心づかいに感謝感激である。だが、天下に号令する日まで、そなたに預けておくぞ。(※)天下御存知とは、天下の隅々まで知り尽くす意味とも、天皇陛下にお見知り頂き、その権威をもって天下に号令する意味とも解釈できます。

何と、天下にならびなき逸品にも関わらず、信長は角鷹を辞退してしまったのです。

逸品の鷹に相応しい天下人を志した?信長(イメージ)。

信長が「まだ今の自分が持つには相応しくない逸品だ」と思ったのか、あるいは単に「こやつとは関わりたくないが、角鷹だけ受け取ったら流石に申し訳ない」と思ったのかは分かりません。

しかし、義政は「これは本当に天下を獲られる御方やも知れぬ」と惚れ込んだのか、あるいは呆れたのかは知りませんが「しからば、その日をお待ち申し上げまする」とばかり辞去しました。

「……まぁ、みやげ話のネタにはなったから、よしといたそう。角鷹はこのまま連れて帰ればよい」

かくして京の都まで戻って来た義政は、人々に信長の話をしたところ、

「遠国(おんごく)よりの望み、実(まこと)しからず」
【意訳】あんなド田舎でホラばっかり吹きおって(尾張の弱小大名風情が、京都まで攻め上がって来られる訳がねぇだろ)!

などと笑われるばかり。しかし、それから十年もせずに信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて京都への上洛を果たしたのは、広く知られる通りです。

エピローグ

いやぁ流石は信長、自身の覇業を宣言通りに成し遂げるとは……というお話しなのですが、『信長公記(しんちょうこうき。信長の側近・太田牛一の日記)』にあるこのエピソード、伝本によっては書かれていないものもあり、後世の創作とも考えられます。

今日広く知られる「天下人」信長。出世してしまえば、それを裏づける?偉人らしいエピソードはいくらでも創作されがち。

そもそも、いくら鷹が好きだからと言って、牢人ならともかく城持ちの身分で、丹波国から遠路関東まで求め(購入?捕獲?)に行き、苦労して手に入れた鷹を主君(丹波守護代・内藤備前守)でなく信長に献上する、という行動が不可解です。

鷹の産地であれば隣国の丹後(現:京都府の北部)や、ちょっと遠いですが石見国(現:島根県西部)があり、わざわざ関東まで出かける理由に欠けます(物見遊山を楽しむほど平和でもありませんし、自身の留守に何があるか分かりません)。

ちなみに、江戸時代中期に書かれた徳川家康(とくがわ いえやす)の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』にもこのエピソードが入っていますが、こちらでは赤沢出雲守(いずものかみ)、角鷹の数も三連となっており、記述もあやしい感じです。

でも、鷹などの猛禽類は種類によって15~20年以上も生きるそうですから、もしかしたら義政が約束を覚えていて、上洛を果たした信長に角鷹を献上したのかも知れません。

「上様、今こそこちらの二連、どうかお受け取り下され」

「……うむ!」

真偽のほどはともかくとして、いかにも信長らしい豪気なエピソードとして、今も人々に愛されています。

※参考文献:
和田裕弘『信長公記-戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年10月

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