鎌倉は俺が復活させる!戦国大名・北条早雲の心意気を伝える企画展が開催中 (2/4ページ)
後の北条早雲)の心意気を現代に伝える企画展を紹介したいと思います。
鎌倉は幕府で終わりじゃない!玉縄北条氏6代の鎌倉復興枯るる樹に また花の木を 植ゑ添へて
もとの都に なしてこそみめ【意訳】
枯れ木に花を咲かせるごとく、この鎌倉に栄華を取り戻してみせようじゃないか!
盛時が鶴岡八幡宮に奉納したと伝わる和歌ですが、戦国時代の鎌倉は、流石に幕府時代ほどの栄華はなく、乱世に習って荒廃していたようです。
戦国時代を代表する梟雄・伊勢盛時。北条早雲の名は死後つけられた。
さて、これまで盛時は一介の素浪人から大名にまで上り詰めた「下克上」の第一人者として描かれて来ましたが、最近の研究により、伊勢氏は室町幕府で政所執事を務めた家柄であったと考えられています。
盛時は京都から駿河国(現:静岡県東部)へと下向し、そこを足がかりに伊豆国(現:同県伊豆半島)、相模国(現:神奈川県の大部分)へと勢力を拡大。
小田原城(現:神奈川県小田原市)を拠点としましたが、東相模の三浦道寸(みうら どうすん。義同)・三浦義意(よしおき)親子を撃破する前線拠点として、永正10年(1513年)ごろ鎌倉に玉縄城を築きます。
その初代城主は盛時の次男・伊勢新六郎(いせ しんろくろう。