「オフィーリア」と「甘粕正彦」にみる残酷な死から表現される美しさ (2/3ページ)

心に残る家族葬

ミレイはこの作品から画風が変わっていくのだが、ここまで到達してしまうと、異なる筆致に変更せざるをえないだろうと思わせる。溺死寸前の精神を病んだ女性という、本来なら目を背けんばかりの惨状であるにも関わらず、観る者は感動を禁じえない。

■夏目漱石が語った「オフィーリア」とは

夏目漱石(1867〜1916)も小説「草枕」で「オフィーリア」についてこのように語る。

「余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリヤも、かう観察すると大分美しくなる。
何であんな不愉快な所を択んだものかと今迄不審に思つて居たが、あれは矢張り画になるのだ」

「余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい」

風流な土左衛門とは中々の表現であるが、死が忌避の対象であると共に魅惑的な響きがあるのは否定できない。オフィーリアは美しいまま死んだ。彼女の美は衰えることはない。死はその人の時間を止める。死は全ての終わりと同時に永遠でもある不可思議なものである。

この奇妙な反転のロジックも、現実の死体を見ると目が覚めることだろう。オフィーリアのごとき死体をリアルで見れば、腐食し魚に啄まれ、無残な姿であることは間違いない。しかし、何かが不滅なものとして残ることもまた事実だ。 死という究極の恐怖を永遠の美へ昇華させる高貴な行為が文学や絵画なのだ。人間とは脆く弱いと共に、したたかで強いものでもある。


■「甘粕正彦」と「オフィーリア」

筆者は「オフィーリア」に見られる美と同じ性質のものを、丸尾末広の「新英名二十八衆句」の一作「甘粕正彦」に見ることができる。

江戸時代末期から明治に描かれた「無残絵」という浮世絵の分野がある。芝居における残酷なシーンなどがモチーフで「血みどろ絵」、「残酷絵」などとも呼ばれるショッキングでグロテスクな世界が展開されている。落合芳幾(1833〜1904)と月岡芳年(1839〜92)による「英名二十八衆句」は「無残絵」の代名詞と言うべき作品群であるが、その現代版を鬼才・丸尾末広と花輪和一が「新英名二十八衆句」として描いた画集が「新英名二十八衆句」である。

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