「オフィーリア」と「甘粕正彦」にみる残酷な死から表現される美しさ (3/3ページ)

心に残る家族葬

血まみれの現代版「無残絵」画集は、本家に劣らぬグロテスクさなので、無闇に検索することはお勧めしないが、その色彩の美しさに惹かれる人は多い。下手な人間が描けば醜悪そのものであろう情景が、丸尾・花輪という鬼才が描くとかくも残酷で美しい世界になる。その中で特に人気が高いのが丸尾の「甘粕正彦」である。

■「無残絵」の血と美

描かれているのは「甘粕事件」(注)の首謀者とされる甘粕正彦(1891〜1945)が、惨殺した直後であろう血まみれの伊藤野枝(1895〜1923)を後ろから日本刀で突き刺している一幕。甘粕の足元にすがりついている大杉栄(1885〜1923)の、甘粕の端正な顔立ちと対照的な間の抜けた顔が、この無残な情景に可笑しみを添えている。凛とした美しさの「オフィーリア」とは一見真逆の「無残絵」だが、伊藤の虚ろな死に顔が「オフィーリア」と共通していると感じる。真逆といったが「オフィーリア」もまた無残な運命の末路である。潔くも気高くもない、ただただ無残な死体。そこから美しさを引き出す芸術性は古今東西共通のようである。

注:1923年(大正12年)9月16日、無政府主義者・大杉栄、内縁の妻で作家・運動家の伊藤野枝、大杉の6歳の甥が、憲兵大尉・甘粕正彦らによって連行され、その後憲兵らによって絞殺された事件。

■永遠に未知なる「死」

死を美化して描くこと、死の描写に美しさを感じる心性は、恐れの裏返しなのかもしれない。結局のところ、生きている我々は永遠に死を知ることはできない(死後意識があればそれは「死」ではない)。未知なるものには、不安と好奇心が、恐怖と憧れが同居する。死と美の関係には、我々の死に対する複雑な思いが見えてくるのである。

■参考資料

■ウィリアム・シェイクスピア著/福田恆存訳「ハムレット」新潮文庫(1967)
■夏目漱石「草枕」新潮文庫(2005)
■丸尾末広/花輪和一「無惨絵 新英名二十八衆句」エンターブレイン(2012)

「「オフィーリア」と「甘粕正彦」にみる残酷な死から表現される美しさ」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る