すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード (2/5ページ)
平安時代から続く甲斐源氏の名族
香宗我部氏は甲斐(現:山梨県)源氏の流れを汲み、平安時代末期に現地へやってきた名族でした。
当時の当主であった香宗我部親秀(ちかひで。右衛門尉)は、なおも勢力を伸ばすべく奮闘していましたが、大永6年(1526年)に安芸氏を攻めた時に大敗、嫡男の香宗我部秀義(ひでよし)を討死させてしまいます。
「やむを得まい……孫十郎(まごじゅうろう)よ、そなたを養子に迎えよう」
一人息子を喪った親秀は、年齢の離れた(※)弟・香宗我部孫十郎秀通(ひでみち。17歳)に家督を継がせて隠居。秀通を補佐しながら、新体制で御家の立て直しを図りました。
(※)親秀の生年=年齢は不明ですが、この時点で「もう子供は期待できない」年齢であったから、弟の孫十郎を養子に迎えたものと考えられます。
その甲斐あってか香宗我部家は乱世を生き延び、天文13年(1544年)には秀通に嫡男の権之助(ごんのすけ。元服して秀長⇒泰吉)、続いて新助(しんすけ。元服して秀政)を授かり、これでひとまず御家も安泰かと思われましたが……。