すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード (5/5ページ)

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苦難を耐え忍び、香宗我部家を盛り立てた中山田泰吉(イメージ)。

本来なら自分がその座に就くはずだった香宗我部家に仕える胸中は察するにあまりありますが、すべては御家のためと覚悟して、忠勤に励んだ泰吉の潔さが胸を打ちます。

その後、泰吉は親泰とその嫡男・香宗我部貞親(さだちか)の2代にわたって仕えますが、関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)で主君の長宗我部家と共に香宗我部家も改易(かいえき。所領没収)されると、新たに土佐国を治めることになった山内一豊(やまのうち かずとよ)に仕えました。

伝えるところによると泰吉は寡黙で礼儀正しく、知勇を兼ね備えていたため人々から敬愛されており、そんな泰吉が従うのなら、と中山田の領民たちは、よそ者である新領主・山内家にも(比較的)素直に従ったということです。

エピローグ

泰吉は元和5年(1619年)1月22日に76歳で天寿をまっとうしますが、彼らの子孫は代々栄え、土佐藩士として活躍するのでした。

そして後世、子孫の一人である陸軍軍人・武田秀山(たけだ ひでのぶ)によって顕彰碑(香宗我部秀通公碑。高知県香南市)が建立され、彼らの遺業を現代に伝えています。

※参考文献:
山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1987年12月
川口素生『戦国名物家臣列伝』学研M文庫、2008年6月

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