暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【後編】 (1/3ページ)

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暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【後編】

前編では幕末の四大人斬りのうちの二人「天誅」の先駆け田中新兵衛、『るろうに剣心』緋村剣心のモデルになった河上彦斎を紹介しました。

前編の記事

暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】

後編では残りの二人、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵と薩摩の西郷の右腕「人斬り半次郎」こと中村半次郎について紹介します。

幕末の四大人斬り 3 岡田以蔵(おかだいぞう)

土佐藩郷士の岡田以蔵は、武市半平太(瑞山)に師事し、剣術を学びました。やがて、その武市が作った土佐勤皇党に加入し、それが人斬りの始まりでした。
武市らとともに上洛し、土佐勤皇党の志士として武市の命を受け、井上佐市郎(土佐藩下目付)を同士とともに暗殺。その後は武市の指示の下暗殺を繰り返していきます。すべては土佐勤皇党のため、武市の恩に報いるためでした。単独で行うことはなく、集団による暗殺でした。田中新兵衛らとともに行うこともありました。

まず安政の大獄での尊王攘夷派の志士弾圧に関与した、京都町奉行の役人や与力(本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞など)などを暗殺しました。この頃、岡田以蔵は「天誅の名人」と呼ばれていました。

その後、岡田以蔵は武市が京都にいる間に脱藩して江戸へ逃亡します。この頃から土佐勤皇党とは疎遠になりはじめ、暗殺はやめて高杉晋作の居候になったり、幼馴染みの坂本龍馬の紹介で暗殺とは真逆の勝海舟の護衛をしたりします。しかし、酒におぼれ身を崩し、無宿者となります。

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