尊皇攘夷の志半ばに…誤解が生んだ幕末4志士の悲劇「四ツ塚様」事件【上】 (2/4ページ)
長州藩へ逃げ込んでいました。
(※)室町幕府の将軍・足利(あしかが)氏の菩提寺である京都・等持院(とうじいん)に安置されていた足利3代将軍(初代・尊氏、第2代・義詮、第3代・義満)の位牌と木像の首を持ち出し、逆賊として梟首(きょうしゅ。さらし首)にした事件で、足利家を徳川将軍家になぞらえた倒幕運動の一つです。
以来、尊皇攘夷の志士として活躍し、元治元年(1864年)には新選組(しんせんぐみ)の密偵として潜入していた松山幾之助(まつやま いくのすけ)を斬殺しています。
一、井原応輔徳道(いはら おうすけのりみち)
天保13年(1842年)生まれの24歳。土佐藩(現:高知県)に仕えていましたが、土佐勤王党(とさ きんのうとう)に入って尊皇攘夷(≒欧米列強に弱腰な徳川幕府の打倒)を実践するべく脱藩。長州へ逃げ込んでいました。
一、島浪間義親(しま なみまよしちか)
天保14年(1843年)生まれの23歳。土佐藩に仕え、文久3年(1863年)、藩命によって京都から追放され、長州へ落ち延びる尊皇攘夷派の公卿・三条実美(さんじょう さねとみ)を護衛。
任務を終えるや否や、大和国(現:奈良県)で起こった天誅組(てんちゅうぐみ)の叛乱に加勢するべく脱藩、大いに奮戦するも敗れて長州へ逃げ込んできました。
一、千屋金策孝成(ちや きんさくたかしげ)
天保14年(1843年)生まれの23歳。土佐の尊皇攘夷運動家ですが、大坂で医術を学んでいることから、武士階級ではなかったのかも知れません。
しかしその志は筋金入りで、文久元年(1861年)に土佐勤王党へ加わり、尊皇攘夷を決行するべく長州へ行きました。文久3年(1863年)京都・禁門の変で敗れ、長州へ逃げ帰っています。