幕末の京都での奇跡!尊王攘夷志士から一転、幕臣となった渋沢栄一と新撰組の意外な縁 (3/3ページ)

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土方は渋沢より5歳年上でしたが、年齢よりも若く見える美男でした。

渋沢VS新撰組

渋沢は、捕縛の方法を新撰組に説明します。「まず、私が一人で大沢源次郎の前に出向き、陸軍奉行の命令を申し渡す。命令に従わず歯向かってきた場合には、捕縛するように」という旨を伝えました。

すると、新撰組の隊士の面々は「危ないからやめて」と反論。しかし、渋沢も負けじと「道理の通らないことは許さない」と言って一歩も引きませんでした。「いきなり切られたら、それは大沢の企てが明らかになる」と新撰組に言い放ったのです。

すると新選組も言い返します。「護衛する人間が斬られたら新撰組の面目がつぶれる」と。それに対して渋沢は「本末転倒なことを言わないでくれ、こちらに従えないなら護衛の任を解いてもらう」と新撰組に一喝したのです。

すると、押し黙って聞いていた土方が隊士たちを一喝して言いました。「渋沢様の申されるとおりにするべき。渋沢様の武士らしい覚悟承りました。お役目の邪魔は一切いたしませんが、大沢が危害を加えるようなことがあれば加勢いたします。」と渋沢を認め、大沢捕縛に向かうこととなったのです。

もともと土方も農民の出身で、新撰組として武士より武士らしく生きたいという信念がありました。渋沢の意見は、土方の心に刺さったのでしょう。

大沢源次郎捕縛の結末

渋沢が一人大沢を尋ね陸軍奉行の申し渡しをすると、大沢は抵抗することもなく神妙に受け入れ「恐れ入りました」と平服し、あっけない幕切れとなりました。身柄は新撰組に引き渡されたのです。

実は大沢は謀反を企てているわけでもなく、単なるうわさに尾ひれがいくつも付いただけだったのです。実際には大沢は談合で私腹を肥やしたり、仮病を使って京都に居残ったりした程度だったのです。それだけ反幕府勢力に対して幕府が怯えていたことがうかがえます。

まとめ

今回は、渋沢栄一と新撰組の意外な縁について紹介しました。

渋沢栄一と新撰組の土方とは、生涯一度きりの運命の出会いでした。それぞれ全く違った道を歩むことを考えると、奇跡のような一日だったのかもしれません。

渋沢栄一は晩年に、本の中に「新撰組 土方歳三」という名前を見つけます。渋沢は土方のことを「私の友達だ」と言ったそうです。出会いは一度きり、末永い交流があったわけでもありません。しかし、そのたった一度の出会いで、互いのことを理解しあえたのです。生涯で一度はこんな出会いをしたいものですね。

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