前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】 (3/8ページ)

Japaaan

慶喜とともに大坂城を脱出したのは、

●筆頭老中板倉伊賀守勝静(かつきよ)[備中松山藩主]

●老中酒井雅樂頭忠惇(ただとう)[播磨姫路藩主]

●若年寄永井主水正尚志(なおゆき)[旗本]等の幕閣たち

さらに、未だに前線で踏みとどまって必死に戦いを続けている会津・桑名の藩主松平容保・定敬兄弟もいた。

 陸奥国会津藩9代藩主「松平 容保」(写真:wikipedia)

二人は、ぎりぎりまで慶喜から大坂城退去を打ち明けられていなかった。

脱出直前に供を命じられ、固辞するもかえって逆鱗に触れ泣く泣く家臣たちを見捨てて同行してきたのだ。

板倉伊賀守は、開陽丸副長の沢太郎左衛門に早急に江戸に向け出帆するよう迫った。これに対し、沢は、艦長榎本武揚の不在を理由に、大坂湾出帆を引き延ばした。

だが、翌8日夜、しびれを切らした慶喜の厳命でついに大坂湾を出帆10日夕方に江戸湾浦賀港に投錨した。ここに徳川慶喜の大坂城脱出・江戸帰還はなったのである。

「前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】」のページです。デイリーニュースオンラインは、徳川慶喜幕末カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る