幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】 (4/5ページ)

Japaaan

この派遣では、幸いなことにロシアとの交戦はありませんでした。

しかし、知床半島北側の斜里で防衛にあたった津軽(弘前)藩では、100人中70人が寒さや風土病で亡くなるという惨事が起きてしまいました。

本州最北端に暮らす津軽藩士は、寒さに慣れていたはずです。しかし、真冬のオホーツク沿岸の想像を絶する自然の厳しさは、容赦なく襲いかかってきたのです。

こうした状況をみた幕府は、北方警備の再構築を図ります。1808(文化5)年、函館・国後・択捉の警備を仙台藩に命じ、さらに、会津藩をして、樺太・宗谷・利尻島・松前の警備を命じたのでした。

宗谷岬に立つ日本最北端の碑。(写真:Wikipedia)

会津藩が危険を冒しても派兵した理由

東北諸藩の抑えとしての役目を担った会津若松城。

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