上杉家による関東支配に終止符!本家と分家の抗争「19年の修羅」 (2/3ページ)

日刊大衆

 味方の陣営を一気に立て直し、長尾軍を用土原(埼玉県寄居町)の合戦で打ち砕いたことで、景春に期待していた成氏が和平を望み、紆余曲折を経て両上杉と和睦が成立し、彼は文明一四年(1482)、正式に幕府から赦免され、三〇年近くに及んだ享徳の乱が終結した。

 だが、これが一九年にも及ぶ両上杉家の対立の呼び水となり、山内上杉顕定は大乱を一気に終結させた道灌、ひいては扇谷上杉家の影響力が増大することを警戒。

 道灌は文明一八年(1486)七月、扇谷上杉定正の居館だった糟屋館(神奈川県伊勢崎市)に招かれて風呂から上がったところ、曾我兵庫という上杉家の家臣に斬殺された。

 これは道灌が扇谷上杉の実権を掌握し、譜代衆の妬みや定正の疑心暗鬼が原因だった一方、顕定が彼をそそのかした可能性もあり、両上杉家の関係は道灌の死後に実際、険悪化。

 顕定は長享元年(1488)の前哨戦の翌年、越後守護家の上杉氏(謙信の旧主筋)とともに定正の本拠地だった相模国に侵攻し、道灌を欠いた扇谷軍は実蒔原(伊勢崎市)の合戦に勝利したものの、相模国内の要害を山内軍に落とされて劣勢のまま大乱に突入した。

 むろん、顕定が道灌を葬り去ったとすれば、予想通りの展開にほくそ笑んだはず。

 ただ、定正が享徳の乱で対立した長尾景春らと手を組み、扇谷軍は巻き返しを図って武蔵国須賀谷(埼玉県嵐山町)にあった山内勢の拠点を攻撃。

 死者七〇〇名余を出す激戦となり、定正は山内の勢力圏だった高見原(同小川町)でも矛を交え、武蔵国を舞台にした合戦では扇谷軍が優勢だった。

■上杉氏の支配が終わり北条氏らの版図が拡大

 その後、両軍の戦いが沈静化する中、北条早雲こと伊勢宗瑞が参陣したことで様相は一変。

 早雲はかつて、出自不明の浪人者といわれたが、幕府政所執事の伊勢一族出身が通説になりつつある武将で、縁戚関係にあった駿河の今川氏の内紛を鎮めると、前述の政知の死後、公方の座を力尽くで奪い取った足利茶々丸を追い、伊豆国を手に入れた。

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