返答は庭への放尿!せっかくの出世を断った「賤ヶ岳の七本槍」平野長泰かく語りき (2/5ページ)

Japaaan

お前の家臣などまっぴら御免!平野長泰、庭へ放尿

平野長泰は賤ヶ岳の武功によって秀吉から河内国(現:大阪府南東部)に3千石の知行を与えられ、その後、徳川家康(とくがわ いえやす)と激突した小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)でも武功を立てて大和国(現:奈良県)の領地を加増され、計5千石の領主となりました。

この時点で長泰は26歳(永禄2・1559年生まれ)ですから、秀吉から可愛がられていたこともあって順調な滑り出しと言えますが、残念ながら石高的にはここが人生のピーク。

それ以降はずっと5千石のまま、秀吉の死後はかつてライバルであった家康に従い、そのまま旗本として徳川秀忠(ひでただ)・徳川家光(いえみつ)と3代にわたって仕え、寛永5年(1628年)に70歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

細川忠興。Wikipediaより。

今回のエピソードは、長泰が家康の旗本となっていた時代のこと。ある日、細川忠興(ほそかわ ただおき)に招かれると、こんなことを言われました。

「権平殿はこの日本(ひのもと)に隠れなき武勇の士でありながら、たった5千石とはもったいない。

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