このイケメン武士、何者?戊辰戦争で活躍した上田甚五右衛門のエピソード【上】 (4/5ページ)
おどろおどろしい描写に人々の危機感が伝わる
「一天万乗の大君を奉戴し、皆が一丸となって国難に立ち向かうべきだ!」
「いや、軍事の実務は武家の棟梁たる徳川将軍家の号令なくして立ちいかぬ!」
「ならば、朝廷の権威をもって将軍家が国防の指揮を執ればよかろう!」
藩主の斉裕が公武合体派(幕府の限界は感じていても、流石に滅ぼそうとまでは考えていなかったようです)であったのに対して、筆頭家老の稲田植誠(いなだ たねのぶ)らは幕府を完全に排除したい尊王攘夷派。
稲田氏は淡路国(現:兵庫県淡路島)洲本城代で国内の意見をまとめており、藩主らの徳島側と家老らの淡路側との対立構造が出来てしまいます。これが後に戊辰戦争で同志諸藩に後れをとってしまう原因となるのでした。
いざ決戦!の出鼻をくじかれ……さて、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、いよいよ討幕(戊辰戦争)の火蓋が切って落とされました。
「さぁ、いよいよ出番が来たぞ!」
ここでようやく上田甚五右衛門らの登場です。この日のために、必死で鍛錬を重ねた腕前を存分に奮おうとしたのですが、1月6日に藩主の蜂須賀斉裕が急死(※)してしまいます。
(※)混乱する藩論をまとめ切れず鬱(うつ)状態に追い込まれ、酒に逃げた結果アルコール中毒症で亡くなったそうです。
「喪に服するため、兵を退け!」
「そんなバカな、まだ何もしていないのに!」
大混乱の中、徳島藩主を継いだのは23歳の蜂須賀茂韶(もちあき、斉裕の次男)。その後の体制を立て直すため(と言うより、藩政の主導権を握るため)に徳島藩勢の大半が我先にとばかり国許へ引き揚げてしまいました。