討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【薩摩藩邸焼打ち事件の真相編】 (3/5ページ)
➀方々の豪商・商家への押し込み、勤皇活動費と称して大金を強奪
②野州出流山(栃木市)での武装蜂起
➂甲府城攻略を目指し、八王子で交戦
➃荻野山中藩(相模国)の陣屋を襲い、放火
⑤江戸市中警護の庄内藩屯所(芝赤羽橋)を銃撃
➅庄内藩屯所(三田同胞町)を銃撃、居合わせた町民2名を殺害
➆天璋院付の女中の手引きにより、江戸城二ノ丸に放火
➇江戸市中で、見境なく放火・略奪・暴行を行う
そして、このようなテロ行為を実行すると、これ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込むのである。
こうした露骨な挑発行為に、静観していた幕府中枢がついに動いた。薩摩藩邸に犯人引き渡しを迫ったものの拒絶されると、12月25日、幕命で薩摩藩邸の焼き討ち命令が出されたのである。
幕府軍は、庄内藩兵を主力とし、出羽上山藩、越前鯖江藩、武州岩槻藩、さらには幕府歩兵の伝習隊が加わり、2000余人の兵で薩摩藩邸を包囲した。
幕府軍は、薩摩藩邸を銃砲で攻撃、周囲では熾烈な市街戦が繰り広げられ、浪士隊は50名近い戦死者を出し壊滅した。
益満休之助は捕えられ、伊牟田尚平、相楽総三は、生き残った浪士隊と江戸湾の薩摩軍艦に収容され、大坂に向け脱出したのである。