源氏再興の志半ばに…平安末期、兄・源頼朝との再会を果たせず散った源希義の悲劇 (2/4ページ)

Japaaan

現:高知県高知市)へ流罪とされました。

父・源義朝の最期。月岡芳年「大日本名将鑑 左馬頭義朝」

兄・頼朝公(当時14歳)はご存じ伊豆国蛭島(現:静岡県伊豆の国市)へ流されましたが、同じ母親の血肉を分けた兄弟同士、これが最期の別れとなってしまいます。

「兄上……っ!」

元服してからは「土佐冠者(とさのかじゃ。冠者は成人男子の意)」「介良冠者」などと呼ばれながら、現地で歳月を送りました。

この期間については頼朝公と同じく伝承の域を出ませんが、土豪の夜須七郎行宗(やす しちろうゆきむね)から支援を受けながら、琳猷上人(りんゆうしょうにん)を師として父の菩提を弔う日々を送っていたそうです。

魂となって兄と再会?

そして20年の歳月を経て、ついに頼朝公挙兵の報せを受けた希義は、兄に呼応するべく決起を図ります。

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