源氏再興の志半ばに…平安末期、兄・源頼朝との再会を果たせず散った源希義の悲劇 (3/4ページ)
しかしこれには平家方が先手を打っており、蓮池家綱(はすいけ いえつな)と平田俊遠(ひらた としとお)らが兵を率いて希義らを急襲、あっけなく討ち取ってしまいました。
(※)別の説では熊野水軍などと連携して独自の勢力を築いており、寿永元年(1182年)ごろまで抵抗を続けたとも言います。
「おのれ……今はこれまで!」
命からがら海上へと逃れた行宗は追手を振り切り、鎌倉入りした頼朝公に合流。後に捲土重来を果たすのですが、それは少し先の話し。
一方、年越山(現:高知県南国市)で討ち取られてしまった希義の遺体は平家に逆らった者の見せしめとして打ち捨てられていましたが、これを憐れんだ琳猷上人がねんごろに供養。
やがて文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の遺髪を鎌倉へ持参。対面を果たした頼朝公は「亡き弟の魂と再会できたような思いである」と涙を流して感謝したそうです。
エピローグその後、弟の仇である蓮池、大軍を派遣して平田ら一党を討ち滅ぼした頼朝公は介良荘に西養寺を建立、希義の菩提を弔いました(明治時代の廃仏毀釈運動により、現在は廃寺)。
また、平成7年(1995年)には西養寺と鎌倉にある頼朝公の墓で石と土を交換、兄弟の再会を果たす儀式が行われています。