人の真価は死に様にこそ…明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った英雄たちの最期【上編】 (2/4ページ)
それでも、これまでと相次ぐ士族叛乱(※)にも同調せず、ひたすら大西郷の決起に望みを賭け続けた彼らは、腐敗した藩閥政府を打倒する大義に殉ずるべく死地へと臨みます。
(※)佐賀の乱(明治7・1874年2~3月、江藤新平)、神風連の乱(明治9・1876年10月、敬神党)、秋月の乱(同年10~11月、秋月藩士)、萩の乱(同年10~12月、前原一誠)
……とは言え心意気だけで戦争に勝てるものではなく、福岡士族は明治政府軍の前に惨敗。徹底抗戦の末に軍を解散し、再起を図って落ち延びた越智と武部はそれぞれの末路を辿るのでした。
あらうれし、いつか誠の……越智彦四郎の最期福岡から脱出し、鹿児島を目指して豊前(現:大分県)、日向(現:宮崎県)と逃避行のすえ4月5日に捕縛された越智は福岡へ護送され、明治10年(1877年)5月1日、除族のうえ斬刑に処せられました。
武士(士族)を斬刑に処するのは都合が悪いため、あらかじめ士族から除いた(身分を剥奪した)上で斬首することを言います。
越智の斬首を担当した(させられた)のは、元秋月藩士で越智の同志であった篠原藤三郎(しのはら とうざぶろう)。
昔から家族ぐるみで助け合うほどの間柄でしたが、篠原が政府の密偵であると言う噂を信じた越智から絶縁されてしまいます。
一方の篠原は、越智と叛乱を共謀しているとの容疑で拘留され、いざ越智らが挙兵すると、釈放される代わりに鎮圧の最前線で戦わされました。
そしていざ越智の斬刑が決まると、当局は篠原に斬首を担当させます。もちろん拒否権などありません。実に悪趣味ですね。