「出世より妻が大事!」武田信玄に物申した戦国武将・小幡上総助の妻に対する愛

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「出世より妻が大事!」武田信玄に物申した戦国武将・小幡上総助の妻に対する愛

戦国時代、家同士の利害によって望まぬ男女が縁づけられる政略結婚が当たり前で、家同士が対立すればたちまち破引き裂かれてしまうのも、これまた当たり前でした。

とは言っても、事情はどうあれひとたび迎え入れた以上、少しでも妻を幸せにしてやりたい、守り抜きたいと思うのが、夫として、男性としての当然の心情と言うもの。

そんな思いは今も昔も変わらなかったようで、今回は「甲斐の虎」こと武田信玄(たけだ しんげん)公に仕えた小幡上総助信貞(おばた かずさのすけのぶさだ)のエピソードを紹介したいと思います。

科なき妻を去り、路頭に立たせ候ては…上総助、かく語りき

小幡信貞(以下、上総助)は天文9年(1540年)、上野国国峯城(現:群馬県甘楽郡)城主・小幡尾張守憲重(おわりのかみ のりしげ)の子として誕生。

当初は関東管領の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)に仕えていたものの、やがて対立すると信玄公についてその上野進攻を手引きし、ほか三増峠の合戦(永禄12・1569年)や三方ヶ原の合戦(元亀3・1573年)など数々の武功を立てます。

「武田二十四将図」より、小幡上総守(上総助)

そんな上総助の正室は上杉家の家臣・長野信濃守業正(ながの しなののかみなりまさ)の娘だったのですが、信玄公によって長野氏が滅ぼされると、家老たちがやって来て言いました。

「上総助よ、そなたの武功は御屋形様も高くご評価されているが、仇敵たる長野の娘と縁づいておっては、今後の栄達に差し障る……そこで相談じゃが、御内儀を離縁し、新たに武田譜代の娘を娶るのはいかがか」

確かに、我が身の出世を考えるのであれば、ケチのついた妻を捨てて、せっかくの縁談に乗り換えた方が得でしょう。

しかし、上総助は違いました。

「武門に生まれ生きる以上、いつもよい時ばかりとは参らぬ。父親が敵であったからと言って、何の罪もない妻を捨てて路頭に迷わせるようでは、武士として一分が立たぬ。武士は不義を恥とする者なれば、たとい主君の命令としてもお受けしかねる。もしこの上総助が、舅の怨みを抱えているとお疑いならば、今この場にて腹を切っても構わぬ(意訳)」

【原文】

「侍のちなみは、よき時ばかりにてなし。この場に及んで科なき妻を去り、路頭に立たせ候ては、上総助が一分立たず。侍は不義を以て恥とす。それともに主命は力及ばず。御内意の分にては罷り成らず候。又主を妻に思ひかへ、逆意あるべき上総助と思召さば、この座にて切腹すべし。」

※『葉隠』巻第十、一二三より

※ただし『葉隠』では上総助の父を小幡駿河守(するがのかみ。不詳)としており、伝聞される内に内容が変わっていた可能性があります。

ひとたび当家へ向かえたからは、生涯かけてお守り申す(イメージ)

……確かに、いっときの出世に目が眩んで糟糠の妻を捨てるような男は、武士の風上にもおけない。その場でこそよい思いが出来ても、いつか武田家が傾いた時に

「アイツは目先の欲につられて義を忘れ、妻を捨てた男だ」

と軽んじられ、一生涯の恥を忍ばねばなりません。それは武士として、もはや死んだも同前です。

こうまで堂々と反論されてしまってはぐうの音も出ない家老たちは、そのことを信玄公に報告。

さすがの信玄公も「上総助こそは武士の中の武士ぞ。彼を手放さぬよう(縁づけようと)焦ってしまった我が過ちである」と非を認め、上総助に手厚く褒美を与えたということです。

終わりに

武田家の滅亡。歌川国綱「天目山勝頼討死図」

その後も上総助は妻を愛して忠勤に励み、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後は上野国へ侵攻してきた北条氏直(ほうじょう うじなお)に降りましたが、武田の名将(武田二十四将に数えられることも)とあって尊重されます。

やがて北条氏が天正18年(1590年)に滅ぼされると、かつて武田旧臣として伝手のあった真田昌幸(さなだ まさゆき)を頼って余生を送り、文禄元年(1592年)に53歳で世を去りました。

上総助の正室がいつまで生きていたかは不明ながら、上総助に愛された生涯が幸せであったことを願います。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月
黒田基樹『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年2月

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