多くの宗教が禁欲を説く中、欲望を肯定する密教とその経典「理趣経」 (2/3ページ)
欲望あってこその人間であり、欲望を否定するのは人間であることを放棄することである。密教はそこから逃げない。逃げずに肯定する。欲望・煩悩が持つ迸るエネルギーを仏教本来の「覚り」を得るために利用する。
■密教は性欲をどのように肯定しているか
欲望それ自体は生きるために備わった本能であり、密教はよれば本来純粋、清浄なものである。しかしその欲望も我々は自分だけが満足するだけで終わってしまう。本来清浄であるはずの欲望をただの醜い煩悩にしてしまうのである。小さい自己満足の喜び、例えば男女の交わり。これを「小楽」という。密教はそこに留まらず、その欲望をとてつもなく大きくしろ、自分だけの快楽「小楽」から全人類、全宇宙的規模の快楽「大楽」へ昇華せよと説く。全宇宙とは密教では絶対的真理の象徴「大日如来」を指す。つまり男女の合一から宇宙との合一を目指すのである。多くの宗教は禁欲を説き「小楽」を捨てさせる。だが密教は肯定し「大楽」への踏み台にする。「小楽」と「大楽」はレベルが異なるだけで本来も同じものである。「小楽」を否定しては「大楽」への道は閉ざされてしまう。覚りのために欲望肯定の哲学を説くのが理趣経である。宗教、仏教というものに禁欲的なイメージを持つ一般人から見ればかなり破天荒な経典といえるが、理趣経は密教を象徴するような内容であり、最も多く読誦されるのは当然といえるかもしれない。
■危険視された経典 理趣経
性欲は人間の欲望の中でも特に激しいものである。古来より性のエネルギーを超常的な能力に転化しようとした人たちがいた。中国には房中術の伝統があり、古代インドの性愛論書「カーマ・スートラ」は様々な性行為について具体的に論じている。また同じ密教でもチベット密教の寺院には男女が合一する様を描いた歓喜図、歓喜像が存在し、仏画、仏像は色彩も激しい描写のものが多い。対して日本の密教はその他の宗派に比べて華美な装飾は目立つものの、チベット比べればシンプルで静謐な印象を受ける。密教は前・中・後期に分類され、空海(774〜835 )が継承した頃は中期の時代だった。チベット密教はその後に展開された後期密教の流れを汲んでいる。中期密教で理趣経が説いた欲望肯定の哲学は、後期に入ってより直接的になっていった。