多くの宗教が禁欲を説く中、欲望を肯定する密教とその経典「理趣経」 (3/3ページ)
日本人は元々性に対してオープンになるのは苦手である。現代に至ってかなり変化はしたものの欧米などの大胆さには及ばない。日本の密教が欲望肯定の思想を、観念的な段階で留まっていた中期のうちに伝来したのは幸いだったかもしれない。
このような理趣経であるから極めて慎重に扱われた。字義通りに解釈すれば単なるセックス教団を生み出すことになりかねない。いわゆる真言立川流は理趣経の表現をそのまま実践した「淫祠邪教」集団として知られている(注)。また空海と最澄(767〜822)の関係がこじれたきっかけは理趣経の注釈書「理趣釈経」をめぐってのことだった。最澄は理趣釈経の貸出を求めるも空海はこれを拒否した。空海にすれば理趣経は直接教えを受けなければどのような解釈をされるかわからない劇薬である。もちろん最澄はそのような人物ではない。しかし理趣経の教えはこれまでの仏教とはあまりに違いすぎたのであった。
注:立川流に関しては近年有力な資料批判が行われており定説が覆されつつある。彌永信美「立川流と心定『受法用心集』をめぐって」、『日本仏教綜合研究』第2号 日本仏教綜合研究学会(2004)などを参照
■本能を超え、宇宙とひとつになる
文明が性の問題をタブー視してきたのは、理性と反する動物的な本能に対する嫌悪感から来ているのかもしれない。理趣経は欲望を避けるどろこか、欲望を単なる本能から宇宙的規模にまで膨らませようとする。このような経典を葬儀、つまり死者を前に読経するのも大胆な話ではないか。理趣経は読経するだけで大変な功徳があるという。それはその場にいる生者はもちろん、魂となった死者にも宇宙と一体になる「大楽」への道を示してくれる力を持っているということではないだろうか。
■参考資料
■正木晃「現代語訳 理趣経」角川ソフィア文庫(2019)