「心頭滅却すれば火もまた涼し」の由来とは?超有名なアノ戦国武将との関係 (2/3ページ)

Japaaan

武田信玄(wikipedhiaより)

しかし1573(元亀4)年には、信玄の死に伴い武田勝頼が家督を継ぎます。1576(天正4)年には、快川を大導師として、恵林寺で信玄の葬儀が行われました。

このあたりから快川の運命が大きく変わっていきます。その後、武田家は織田信長の甲州征伐により敗北・滅亡しますが、この時、武田領内が混乱するなかで、快川は武田家の武将の一人・佐々木義弼のほか、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守たち一行を恵林寺に匿いました。

これは、武田家に恩義を感じていた快川にとっては当然の行動でした。

しかし、このことが織田信長の怒りを買います。

織田軍による焼き討ちで…

織田軍は恵林寺にも攻め込みます。当時、寺は聖域とされており、いくら敵が匿われているからといってそこを攻めるなど禁忌破りもいいところでした。それでも織田軍は寺の周囲に薪を積み、焼き討ちを仕掛けました。

追い詰められた百人もの修行僧たち。彼らは慌てふためき右往左往します。しかしそんな彼らの狼狽ぶりをよそに、快川は火炎の中で座禅を組んで「この機に臨んでどう法輪を転ずるか、一句言ってみよ」と投げかけます。禅僧として何か気の利いたことを言ってみろ、という感じでしょうか。

弟子たちはそれに応えました。そしていよいよ炎が迫る中で、快川はこう唱えたといいます。「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火おのずから涼し)」。そして自ら燃え盛る炎の中に身を投じました。1582(天正10)年のことでした。

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