戦国時代、嫉妬で毒殺されてしまった李氏朝鮮の名医・経東の悲劇 (2/5ページ)

Japaaan

激しい戦闘の末、経東はじめ多くの者が連行された(イメージ)

「しかし連れて来たのはよいが、慣れぬ土地でバラバラに暮らすのは心細かろう」

という元親なりの配慮によって、現代の唐人町(現:高知市唐人畑、後に同市唐人町へ移転)が作られたと言います。

故郷から遠く引き離されたとは言え、いつまでも悲しんでいたところで始まらぬと医業を再開した経東でしたが、最初の一年ほどは日本人の診立てが上手くいかず、人々は「異国にも かかる盲医も ありけるよ(五七五)」などと笑われたそうです。

日本と朝鮮では風土が大きく異なり、そこで生きる人々の体質も違っていたことから誤診が相次いでしまったのでした。

「やはり身土不二(しんどふに。人間の身体は生きる土地と不可分の影響を受ける)とはよく言ったものだなぁ……」

実際、朝鮮同胞の診立てについては以前と変わらず上手く行っていたのでその確信をもてた経東は、日本の風土と日本人の体質についてよく研究し、ほどなく名誉を挽回したそうです。

海を隔てているとは言え、お隣の国と思っていても、日本と朝鮮ではそんなに違うのですね。現代でも、そうなのでしょうか。

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