言葉の壁を乗り越えるには?遣唐使として海を渡った貴族・橘逸勢のエピソード (3/4ページ)
「ごちゃごちゃした理屈は要らんのだ!考えるな、感じろ!魂のままに弦を爪弾き、思うがままに筆を走らせるのだ!」
と思ったかどうだか、一度開き直ってしまえば人生意外に上手く行くもので、琴も書も一流を究めることが出来たのでした。
こと書については当代一流の柳宗元(りゅう そうげん)に学び、唐の人々から橘秀才と呼ばれたのだとか。
やがて大同元年(806年)に日本へ帰国してからも、空海(くうかい)や嵯峨天皇(さがてんのう。第52代)に並ぶ「三筆(さんぴつ)」と称され、現代までその名を残しています。
エピローグかくして書道の大家となった橘逸勢でしたが、あまり出世はしなかったようで、すっかり年老いた承和7年(840年)に但馬権守(現:兵庫県北部の仮任国司)となったものの、老齢と病のため出仕はせず、隠居状態だったそうです。
そんな逸勢でしたが朝廷の皇位継承争い(承和の変)に巻き込まれて謀叛の疑いをかけられ、伊豆国(現:静岡県伊豆半島)へ流罪となってしまいました。
承和9年(842年)8月13日、伊豆国への道中で病没。寂しい最期を迎えましたが、後に潔白が証明されて嘉祥3年(850年)、仁寿3年(853年)に位階を追贈され、名誉を回復したのです。