目黒の五百羅漢寺の羅漢像を彫り上げた松雲元慶に影響を与えた笵道生 (3/5ページ)

心に残る家族葬

粘土で原型をつくり、その表面に麻布を貼り固めた後に、像内の粘土を除去して中空にし、麻布の表面に漆を塗って成形する、「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」という、日本では天平時代の8世紀に盛行していたものの、当時の日本では廃れていた手法を再び、紹介した。更に像の衣縁(いより、主に僧衣)部の装飾では、細長く伸ばした紐線を貼りつけて図柄を描く技法も用い、それは道生が生まれ育った福建省泉州や厦門(あもい)などの沿岸部で伝統的に用いられてきた「漆線彫(チーセンティオ)」であると推定されている。これらの技は後に、京都出身の松雲はもちろんのこと、多くの京都の仏師たちに再び、継承されたという。

■36歳で亡くなった笵道生


羅漢像を完成させた後、道生は萬福寺を辞した。70歳を迎えた父親の誕生祝い、または病気見舞いのために、いったん帰国を決意したとされる。道生は長崎までの道中、隠元の高弟だった即非如一(そくひ・にょいつ、1616〜1671)に随侍していたと考えられているのだが、豊前小倉藩(現・福岡県北九州市)を通過した折、かねてより新しく黄檗宗の寺の創建を考えていたとされる、藩主の小笠原忠真(たださね、1596〜1667)に引き留められ、どの程度の期間であるかは不明だが、滞在した。その後、1665(寛文5)年に晴れて即非が開山となった福聚寺(ふくじゅじ)に、仏像ではなく、「韋駄天像」などの見事な絵を残している。

日本を離れてからの道生は、父親が住んでいた広南(こうなん)国(現・ベトナム中部)から、見事な墨跡と共に十八羅漢を描いた「十八応真(おうしん、阿羅漢の別称)図」を、萬福寺内の塔頭(たっちゅう、本寺の脇に建てられた小寺)・漢松(かんしょう)院の、隠元に従って来日していた独吼性獅(どっく・しょうし、1624〜1688)に送ったとされる。

時を経て、道生は再び、寛文10(1670)年6月〜8月に、来日することになった。それは、寛文12(1672)年までに萬福寺に戻り、本尊造像を行うなどの約束を交わしていたためだったという。

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